月照無眠

但实际是做些什么,到现在还是不懂……。

食べ物のうらみ(鍋)


人の家で鍋を囲もうとなっても、例えば14歳くらいのときに友だちの家に呼ばれるとかならその家の流儀に従って進行する鍋をめいめいが器に受けていただくというくらいで、その家の外の者が鍋奉行を買って出るような気安い席にはならない。大学生のときだかに一人暮らし友人の家にあつまって鍋を囲む機会があった。材料の買い出しにスーパーでカートを押しながら何を買うかの時点から、際限のないああでもないこうでもないが繰り返され、船頭多くして船山に上る「協働」がはじまる。食材選び、会計、袋につめる、袋を持つ分担、食材を切る、誰かがイニシアチブをとりそれぞれが身をわきまえて貢献の場面を探し、なんとなく歯車は回る。鍋物には家庭それぞれの味や流儀があり、だからこそその多様な食経験をひとつの鍋に溶かしこめば何が起こるか? 友だちでいつづけるために今夜確認してみようじゃないかと鍋を囲みたがる人がいる。集団のルールは適度な個性の表出とあざやかな妥協であり、その手綱さばきを競い合うのが面倒ならば往々にして共同調理は「がさつ対決」の方向に落ち着くし、がさつに盛り上がるのも秘訣ではある。そもそもさほどがさつではない仲間内ならがさつの度が過ぎる心配は少ないのだし。

その日はすき焼きで、はじめに肉を一枚入れて割り下に香りをつけることには特に異論もなく、あとは準備された野菜などの具材を入れればよさそうだった。ので私が入れた。割り下の沸き具合からしても控えめなくらいだったけど、そのときに「しらたき」まで入れてしまったことがやおら問題になった。曰く「しらたきはスープの味を吸うのではじめに入れてはいけないのは常識ではないか」とのことであり、私はそんな流儀は初耳だったけどその場の誰もがそれを常識として共有しているかのようで、もはや私は無遠慮に禁忌を犯し豚の血を浴びた。。。今にして思えば「しらたき」が味を吸うとかどういう機序なのか事実なのかあやしいものだし、仮に「しらたき」が味を吸うとしてそれが全体としてなぜ不都合なのか釈然としない。ただ「家ではそんなことはしない」という根拠ならその指摘こそが集団のルールに反するが、「しらたきが味を吸う」という科学めく理由付けがその場しのぎの同調すら誘ったのかもしれない。「あーなんてことをしてくれたの」「しらたき一度もどそうか?」と大騒ぎであった。


先日、お仕事上の*1機会で老舗の牛鍋屋に初めて行った。そこのお店は全部仲居さんがやってくれるので見てればいい。仲居さんはじめから「しらたき」入れてた。昔のうらみを思い出した。しかし老舗高級店の権威をたのみに学生時代のうらみを晴らした気持ちになってるという自分のくだらなさに打たれるしかない。でもすき焼きはおいしかった。

*1:接待的な?