月照無眠

但实际是做些什么,到现在还是不懂……。

トゥイラ

(歌手の)May J.さんはプロアクティブ(ニキビの薬?)のCMで「プロアクティブがなければ今の私はいない」というようなことを言っていた。プロアクティブでニキビを治したことで人前に出るお仕事もできるようになった、みたいなことだろうか。詳しい意味合いをどこかで聞けるのかもしれない(調べてない)。

 

それはともかく、私も「Twitterがなければ今の私はいない」と断言できます。

 

人は自分で思っている以上に環境に規定されているので、通勤経路にあって年に一度入るか入らないか程度の縁しかない蕎麦屋でも、仮にその店がなかったら、全き「今の私」とは微妙に異なる存在になってるのかもしれない。ということも言える。でも私にとってTwitterは、そんな虫メガネでやっと見分けられるような差異しか生まないものではない。多分、「過去の勤務先の一つ」「通ってた高校」レベルの大きな影響を私の人生に与えてると思う。すごくインパクトのある発明品だったのだ。

 

短文縛りであることで気軽にどうでもいいことを発することができ、そういう仕組みだと本当にどうでもいいことが日々発せられるんだけど、かようにどうでもいいことがテキストとして世界にオープンにシェアされまくるというのはそれまでなかったことなのではないか。どうでもいいことといってもなんでもかんでも書くわけでもなく、基準はよくわからないがなんとなくその人なりの塩梅に落ち着いていくことで一定の「スタイル」が生まれ、トゥイートしている内容もさることながらそういうスタイルの波長によっても「フォロー」したい人を見つけることができた。そうして作るタイムラインはとにかく心地良かった。みんな対面の現場でわざわざ長々と主張しないけど、Twitterでのどうでもいいトゥイートという形式ですばらしい言葉をシェアしてくれるし、魅力的で刮目すべき人々がこんなにたくさんいるのだ、ということをわかりやすく示してくれてありがたかった。この心地良いリゾナントを「エコーチェンバー」とかいうよくわからないワードで責めてくるやつがいてそれは不快だったが。

 

最近『ネット・バカ』という本を(総ページ数の1/10くらい)読んだけど、人はその思考も含め「道具」に規定されがちだし、このインターネット時代に人間の脳もそれなりに変化していよう、というテーマの本であるようだった。本当にその通りだと思うし、まさにTwitterによって変えられてしまった15年間であったと言える。なのだが、ここのところ(マスク氏に買われる以前より)Twitterになんか「Facebookみ」*1という表現で適切なのか、とにかく好ましくない夾雑物が増えてきていたように感じられ、また私自身の"老い"もあり、自然とTwitterの使い方も少しずつ変化してきていたように思う。必ずしも毎日見なくなってきていた。

 

そんなこともあり、「Twitterがある日突然終わるかも」みたいなことで人々が「スレッズ」などを試すなか、いまいちよく働かない頭で逆張り的に「Twitterなんてなくなっても別にいいよ」という文字列が浮かんだものの、それを真剣に検討したら「なくなってほしくない!」とつよく思えてきました笑

 

というわけで、「少なくともここにいます」的なものとしてはてなブログ再開したいと思い、Twitterで「+」を使って長文投稿するならぶろぐでもいいじゃんということでこれ(↑)を。

*1:Facebookが本当に嫌いであることは機会を改めて日記にしたい。